※この作品は作者の独断と偏見によるシミュレーション戦記です。実際の人物、国、民族は関係ありません。
■~205×年 米国参戦と日中敗北そして核戦争
周辺諸国との戦争で疲弊した中国はかつての優勢を失い、対印戦では旧国境線まで押し戻され、対露戦や対蒙戦でも防戦一方となっていた。モスクワでは中国を除いた国連主要国(と2カ国臨時政府)が集まり緊急会合が開かれた。この会合で中国は常任理事国より外される事が確定的となる(モスクワ緊急会合)。さらに対中制裁が取り決められ、それまで中国の一帯一路に参画していた中東や欧州、南米やアフリカ諸国もそれに応じた為、世界における中国の影響力は地に落ちることとなった。
クレ岩礁の戦い
フィリピン海東部では特東同艦隊が政治委員の指示により、ハワイへの進軍を開始していた。数日後に艦隊がハワイのクレ岩礁沖に辿りついたが、岩礁に大量配備された対艦兵器の攻撃に阻まれて進軍を止めざるを得なくなる。そこへ海鳥を通してひそかに投入された人工ウイルスによって船員達は艦長以下全員高熱にうなされた末に死に至る。その結果、無人となった艦隊を米軍はほとんど傷つけることなく手に入れることができたのだった(ただし人工ウイルスについては予想以上の感染力と致死性の高さ故、後の作戦で使われることはなかった)。
戦闘の様子は高高度超音速無人偵察機「無偵」が観測していたが何が起こったかわからず、その後艦隊がパールハーバーに堂々と寄港(実際は鹵獲されて米軍によって運航)したことからオペレーターは自国軍が勝利したと誤認した。
キャンベラ攻防戦
その頃、オーストラリア大陸東海岸では首都キャンベラを巡って中豪両国の軍が熾烈な戦いを繰り広げていた。「無偵」の報告を受けた南部戦区海兵隊将軍は特東同政治委員に対し援軍を要請し、色よい返事を受ける。数週間後約束通り艦隊が近づくが、それは特東同艦隊を流用した米艦隊だった。(本物の特東同隊員はハワイ島で検査・解剖をを受けたのち火葬された)。陸海から挟撃を受けた南部戦区海兵隊はなすすべなく壊滅し多くの隊員が戦死した。
第二次アラビア海の戦い
一方、インド洋アラビア海では南海・南西海連合艦隊とインド海軍が正面衝突し、両軍に被害が拡大していた。インド海軍は沿岸部の火器を頼りにしながら近づく敵艦に攻撃を加え続け、消耗戦を強いていた。対する連合艦隊は数で押そうとするも決め手に欠けたまま、疲弊していく。そこに対豪戦線崩壊の知らせが届き艦隊司令員はひとまず南シナ海に戻ろうと判断したが、戦績にこだわった政治委員は攻撃継続を命じ引くことを良しとしなかった。その結果南シナ海への米艦隊の侵入を許してしまい、後方基地が切り崩されて孤立してしまう。その後、弾薬が不足したところへ米原潜の襲来を受け、米印で挟み撃ちにされた中国艦隊は崩壊した。
ウルムチ蜂起と結社革命
中国政府にも対豪戦線崩壊の知らせが届き皇帝は動揺するが、それ以上に一帯一路の協力国が制裁に参加したことが痛手だった。それによって中国国内はAI計画経済が急速に行き詰まり、政府に対する人民の不満が一気に高まってしまう。そんな中、新疆で活動していた東ムスリム同胞団が、老朽化した警備ロボットを破壊してウルムチを占拠する。皇帝が即鎮圧を命じたが西部戦区軍は対印戦と対露戦で疲弊しており、新疆の南西から浸入した東トルキスタン・イスラム武装組織の急襲まで受けて次々と敗走を重ねた。
中国軍の弱体化をアマチュア無線で知った中国各地の秘密結社は革命へ向けた活動を本格化させる。北部では瀋陽共和国政府がロシアから武器供与を受けて北部戦区軍を背後から奇襲し混乱させる。北部戦区軍は対蒙戦線を維持できなくなり、ロシア空軍の爆撃も相まって壊滅に追いやられた。南部でもベトナム再解放戦線の一斉蜂起を受け、南部戦区軍は抗戦の末に敗北した。
露蒙連合軍南下と天安門宣言
残った中部戦区軍だけでは中国全土に広がる暴動を抑えられず、国防にも手が回らなくなった為ついにロシア軍とモンゴル軍が対中国境線から南下し始める。そして数日後、統一高麗がロシア軍の急襲を受け占領された(この時、高麗政府は中国との非同盟を主張したが、対蒙戦での事を知っていた露軍司令官は容赦せず、高麗は無条件降伏せざるを得なかった)。その後、ロシアとモンゴルの連合軍が北京に迫っていく。
窮地に陥った皇帝は中部戦区軍を連れて南京に逃れた(北京市の人民も後を追った)。そして同日、ロシアとモンゴルの連合軍が北京に入り軍事占拠する。そして天安門広場でロシア連邦大統領とモンゴル国大統領、ニュートリノ通信を通してインド首相とオーストラリア首相、北米連合大統領が共同で中国と日本へ最終通告を宣言する(天安門宣言。東アジアと占領地の解放と民主化、交易の自由化、日中両国の政府高官と軍幹部などの身柄引き渡しが要求された。応じない場合核兵器の使用が言及された)。
日本の降伏拒否
宣言を受けて日本政府はパニックに陥った。この時北海道では中国の哨戒部隊を蹴散らしたロシア海軍がすでに上陸を開始しており、迎撃するためのさらなる援軍を北京に依頼しようとしていたところだったのだ。国会では日本国籍議員の全員が即時降伏を主張し、中国籍首相の不手際を非難して辞任を迫った。この動きに多数派の中国籍議員らも同調したため、オール与党であるにもかかわらず数十年ぶりの内閣不信任決議が採択される。
窮地の真っ只中でも政争に明け暮れる日本政治に業を煮やした東部戦区軍政治委員は駐留軍をして国会を占拠し首相以下政府関係者を地下(核シェルターの機能があった)に監禁した。そして急遽軍政を敷き、メディアを通して戦争継続を住民に呼び掛け、事実上天安門宣言をはねのけた。東亜総連も住民たちに武器を配布して義勇兵を募り、上陸してくるロシア軍を迎え打とうとした(だが、誰も参加する者はおらず配布された武器もFEARや敵国籍住民への私刑に使われた)。
皇帝の演説、核戦争
一方、首都を占領されプライドを深く傷つけられた中国皇帝は国営放送局に乗り込んで国際テレビ放送で一時間にわたる演説を開始する。曰く「我ら偉大なる中華民族は人類文明の偉大なる祖であり、これまでも偉大な歴史的・文化的貢献を幾度となくしてきた。したがって、我らに対する攻撃は即ち偉大なる人類への攻撃と同義であり、その無謀かつ罪深き振る舞いは我らの偉大なる技術の結晶によって一人残らず滅ぼされるだろう」というウルトラエスノセントリズムな声明だった。この時皇帝は世界各国への核攻撃を決心しており、各地のミサイルサイロ、海底に潜む弾道ミサイル原潜に攻撃命令を発していた。
これを察した中部戦区軍司令員は警備ロボットを操作してクーデターを起こし皇帝を拘束する。しかし、一部の核ミサイルが止められず米国とロシアの主要都市に着弾した(後日、同司令員がロシアの工作を受けていたことから米国をわざと攻撃させたという陰謀論が出たが、ロシアも被害を受けているためすぐに否定された)。その結果両国の原潜からの核報復を受けて、中国や日本の主要都市が焦土になり多くの住民が亡くなった(日本にとっては六度目の核被害。2030年代の中国市民の願望が叶った形だが自らが住む都市も焦土にされるという皮肉な結末となった)。
北京裁判
廃墟となった南京で皇帝の身柄引き渡しが行われ、日本の首相もシェルターの中で天安門宣言を受諾して第三次世界大戦は終結した。後日、北京に建設されていた旧国連本部で裁判が行われ、中国皇帝並びに日本首相と統一高麗委員長、日中高麗政府関係者、自衛隊幹部および中国・高麗軍将校、そして戦争を扇動し敵国籍住民を大勢迫害した東亜総連幹部に死刑判決が下された(クーデターを起こした中部戦区司令員だけは罪を逃れた)。
(2019/11/15 本文一部修正、12/3 リンク添付、12/24 本文一部修正)
(2020/1/11 見やすく修正、2/3 クレ岩礁の戦いで投入される兵器を変更)