第三次世界大戦

※この作品は作者の独断と偏見によるシミュレーション戦記です。実際の人物、国、民族は関係ありません。

 前回はこちら

hatoyabu01.hatenablog.com

■205×年~ オセアニア進出と中蒙開戦(第3次世界大戦)

 オセアニア緊張

 中国は長年、バヌアツやパプアニューギニアなどのオセアニアの島国に開発支援をしており、その見返りとして東南アジアと同様に海軍基地建設を進めていた。これを警戒したオーストラリアは中印戦争においてインドを水面下で支援し、外交上では中国との対立を深めていた。
 そんな中、記録的大干ばつが東アジア各国で起こり、極めて深刻な水不足に見舞われる。これを受けて日本からの水輸出が増えるが需要に供給が追い付かず、水価格の高騰をもたらす。そこで中国政府は日本からの水輸出を自国も含めた東アジアの国に限定し、優先的に水が供給されるようにした。これによってオーストラリアは日本の水を輸入できなくなり、畜産業が壊滅的打撃を受ける。さらに対印戦争の長期化を受けて中国がインド洋と南シナ海の航行制限を強化したため、他の輸出入も滞るようになる(中国共産党支部を受け入れた企業ですら交易を制限されたり、高い通航量を取られたりした)。
 そこで、オーストラリア政府は抗議の意思表示のため、インド洋での航行の自由作戦を実行。東アジア新秩序管理外の商船団の航行を強行させる。そして、インドへの支援も公然と行い国際社会に対中連携を訴えた。

 ティモール海事変

 これを受けて中国皇帝はインド軍との挟撃を恐れ、秩序への挑戦者として対豪戦争を決意(海軍や南部戦区軍からの圧力もあったとされる)し南海艦隊にティモール海侵攻を命じた。改造ウイルスを投入することで戦況は中国海軍にとって有利に進み、オーストラリア海軍はあっさり壊滅し、そのままダーウィン市をはじめとするオーストラリア大陸北部沿岸を占領するに至る。さらにそこからシドニーなどの主要都市へ艦上機による爆撃が敢行され、支配地域を徐々に拡大していった。

 モンゴル核密輸疑惑

 同じ頃「モンゴルが核密輸を計画している」という疑惑が中国国内で持ち上がり、国際問題にまで発展する。モンゴル代表は「事実無根」と訴えるも、中国はモンゴル領の一部を非核化のために自国の信託統治にするべきと告げる。モンゴル政府は不服として中国軍の受け入れを拒否した。

 中蒙開戦

 モンゴル政府の態度に中国国内では「外モンゴル武力統合」が叫ばれ、北部戦区陸軍も政府に開戦への圧力を加える。これに屈した皇帝は急ぎモスクワに飛んでロシア連邦大統領と会談し、紛争相手国の支援を禁じた準同盟関係を持ちかけたが拒絶された。結局、ロシアとは互いの核心的利益を侵害しない不可侵条約を結ぶに留まった(中露相互利益不可侵条約)。その後、H-20によるウランバートル市の爆撃をきっかけに中蒙戦争が勃発する(ウランバートル空爆事件。事前工作の余裕がなかったため改造ウイルスを詰めた生物爆弾を使用するあからさまに国際条約を反故にした所業だった)。
 当初首都ウイルス爆撃に成功した中国軍はあっという間に戦争終結できると思っていた。しかし、事前にワクチンを接種していたモンゴル軍の被害は軽く、モンゴル領に侵入した北部戦区軍は高度に訓練され最新の兵器を携えた小隊の散発的な襲撃を受けて思ったように進軍できなかった。また、H-20による二度目の空爆もモンゴル空軍や国籍不明機(ロシア機)に撃墜される事案が多発し、次第に有効打を打てなくなった。そのためこの戦いも中印戦争同様に長期化し、中国のさらなる疲弊を招くことになる。

 北米

 かつての米国では内戦終結以降、各州の権限が独立国並みに高められEUのような連合体制をとることが決定した(北米連合と呼ばれる。昔構想された北米大陸統合案とは別物である)。その後合衆国議会は連合議会と改められ、強権政治の反省から大統領の権限も大幅に減じられた。
 その後連合議会は中国のインド洋支配及びオセアニア進出に警戒感を高め、ハワイ州国で大統領がインド首相とオーストラリア首相と会談する(ホノルル会談)。その後、連合各国でオーストラリアとインドの支援へ向けた準備が進められる。
 ただ、運用している軍艦のほとんどが艦齢50年を越えており、軍用機に至っては民間機用の部品を代用したキメラ状態になっていた為、まともに投入できる状態ではなかった。だが、内戦期もひたむきに整備と更新を繰り返していた原子力潜水艦は世界最高水準を維持していたため、それを使った極秘の物資支援を計画するようになる。

 なお、中国が戦略的に使用する「改造ウイルス」が世界規模のジェノサイドに使われる危険性を恐れた研究者たちは、それを上回る性能を持ったウイルスの開発に乗り出す。

 日本

 ついに天皇制廃止を決める住民投票(ただし中国本土からの旅行者にも投票権が与えられたため厳密には住民投票ではない)が行われ、僅差で廃止が確定した。天皇の資産は特殊法人としてまとめられ、千代田区の皇居より立ち退きが決定する(東京行幸の終焉)。しかし東連党が与党となっている京都議会が御所への受け入れ(京都還幸)を拒否したため、一時措置として赤坂御用地に身を寄せる事態になった(天皇居住地未確定問題)。その次の年、今上天皇退位をもって二千年以上続いた天皇の歴史に幕が下り、政府は共和制移行を宣言し国名を「日本共和国」と改めた。

 しかし与党内で肝心の憲法改正案が纏まらず、1条から8条までを死文化するだけにとどまり首相公選などは実現しなかった。そのため政局次第で首相がころころ変わる風習は相変わらずで国民の政治不信が即社会不安につながった。また国旗国歌についても天皇制との決別のために日章旗君が代を廃止するも、公募で集められた代替案に反対論が相次ぎ、未確定状態が数か月にわたって続くことになる(そのため国際社会では暫定的にかつて被占領時に使われた国際信号旗Eを基にした旗を掲揚していた)。
 それから半年の間社会不安が続いた頃、かつて天皇の娘と婚姻した中国籍代議士が東連党の後押しを受けて首相に就任する(廃止されても依然として影響力を持つ皇室と関係を持っていた彼は日本中から圧倒的な支持を獲得していた)。彼は東連党の党旗を国旗とし、東亜総連歌「われらがこの地を征す」を国歌として決定し、逆らう者を東亜総連の圧力によって封じていった。その後首相は戦争で疲弊する祖国を手助けするため、同国軍と自衛隊との相互防衛を実現する「アジア平和支援法(平和法と略する。内容はかつての安保法制より集団的自衛に踏み込んだ内容となっており本格的な対中軍事同盟を志向したものだった)」を提唱し反対した閣僚を更迭させてまで閣議を断行した。これにかつての難民台湾人、難民ベトナム人、迫害されたインド人の2世や日系ハーフが中心となって反対運動を決起する(平和法闘争と呼ばれる。運動家たちは同法を戦争法や侵略法と呼んだ)。田舎を拠点としていた彼らは自由東アジアレジスタンス(FEAR)を結成し、AIに頼らない農作やものづくりに取り組みつつ、対中不服従を訴え現政権打倒に向けた活動を広げていく。
 これに対し首相は特ヘイ禁を盾にFEARを弾圧し数十万人もの運動参加者を検挙し拘置所送りにした(検挙数が多すぎたので廃校舎などが収容所に改修された)。さらに東亜総連とメディアを通して平和法賛成運動を展開し、反中的なFEARを「反平和主義たる日帝の亡霊」と非難した。結果、それを信じた中国籍住民や高麗籍住民は勿論の事、殆どの日本籍住民もFEARを敵視するようになる。そして、一部過激化した中国籍住民と高麗籍住民、そして衛星党の日本共産党員がFRARに関わる住民を私刑に処し、無関係な神社や寺も「夷民族文化」として標的にして破壊活動を行った(彼らはこれを日本版文化大革命と呼ぶ。この時代、日本籍住民は全体の5割を切っており、その多くが民族としてのアイデンティティを失っていたのだ)。
 この混乱によって数万人規模の死傷者を出したが、法案は満場一致で可決され軍事協力へ向けた動きが変わることはなかった。この時代は国会も地方議会も東連党を中心としたオール与党体制となっており、事実上の一党体制となっていたのだ。その後首相は「日帝の亡霊との戦い」として非常事態宣言を発令し、すでに形骸化しかけていた選挙制度を無期限に停止した。かくして日本は他の中国支配下の国々同様、中国人(漢族)支配の独裁国家へとなり果てたのである。

 琉球

 人民選挙によって圧倒多数で中国への編入が決定される。しかし、編入への手続きは受け入れられなかった。この頃の中国政府は周辺国との戦争で余裕がなく、また既に同国を事実上支配下においているので編入の必要性が感じられなかった為である。数年後、財政の立て直しのためにようやく編入と相成ったが、当初琉球側が希望していた琉球省とならず、台湾島を管轄していた台湾省の一部とされた。そして同省の政策によりベーシックインカムが廃止されて、琉球人の多くが台湾内陸部に強制移住させられる。これ以降、琉球諸島は中国海軍支配下に置かれることとなり琉球文化は廃れていくことになる。

 中国

 長年の人民監視と支配によって、都市に住む漢民族を中心に自ら考え行動しない人が増加、結婚しない男女が増える。また都市部での出産は人工子宮を使うのが常識になったため、順番待ちが相次ぎ少子化の深刻化をもたらす。政府は自然出産を奨励し、学校では自ら考える力を養う授業を設けるが、「皇帝と党とAIの指示」を否定することはできないため無意味に終わる(自ら考えられる者は皆海外へ移住してしまった)。
 一方、田舎ではロボット農場が多くを占めるようになっており、天気を操り多くの作物を機械的に採れるようになっていた。しかし収穫の多くが外国への輸出やバイオ燃料にされたため庶民の生活はまったく好転せず、かつての三分の一以下にまで人口が減っていた(都市部と違い中国政府はこちらを一切問題視しなかった)。
 そんな中非漢民族を中心に監視の目をくぐりながら強かに生きるコミュニティが密かに築かれる。一部は日本のFEARと接触しAIに頼らない農業技術を取り入れたり、昔ながらの陶磁器の製造を復活させたりして東南アジアや北東アジアを対象に裏マーケットを形成していた。

 統一高麗

 モンゴルと関連して密売疑惑をかけられたが、多額のわいろによって巧妙に責を免れる。その反面対モンゴル戦に参加することになる。東南アジアの反テロ活動にも多くの人民が駆り出され、資材や費用を肩代わりさせられたので国家財政がひっ迫していった。

 東南アジア

 各地ではイスラム武装組織のゲリラに対処するため中国軍による軍政が敷かれるようになっていた。無謀な森林伐採と開発で深刻な水不足になり、大干ばつによって多数の死者を出した。農業もできなくなったので経済は破綻し、偏見を持つ中国軍人への不満から、温厚なムスリムや他宗教徒もゲリラ戦に参加するようになる。文化も破壊され尽くし、いくつかの地域は完全に中国と同化していた。

 インド

 インド経済は対中戦によって疲弊していたが、ロシアやオーストラリアの支援(中豪戦争でオーストラリアからの支援は滞る)で何とか戦闘を継続していた。インド北東部ではゲリラ戦を主とした作戦が継続的に行われ、沿岸部では海軍が警備と訓練を繰り返していた。産業面では中国に先行されていたニュートリノ通信技術を独自に開発して小型化にも成功する。そして中国が毎年作り出す「改造ウイルス」のワクチンを短期間で作成するビジネスを確立し、オーストラリアやロシアに秘密裏に輸出し大きな利益を上げていた。
 そんな中、内戦を終わらせた北米連合とオーストラリアも交えた首脳会談が実現し対中戦で連携することで一致する(ホノルル会談)。さらにモスクワへも飛びロシアと共同で核の拡大抑止をモンゴルに提供した(ヤルタ宣言)。
 パキスタンとの連携も進み、アフガニスタンタジキスタンキルギスカザフスタンを経由したロシアからの大規模な陸上支援が受けられるようになる(この支援道路は中国の一帯一路と交差しており、時々敵対している国のトラック同士がニアミスする珍しい光景が見られた)。また、パキスタンを拠点する東トルキスタンイスラム武装組織との接触にも成功する。

 オーストラリア

 大陸北部を占拠された政府は北米連合の支援を受ける為、ハワイ州国へ首相が飛び大統領と会談を行った。同時にインド首相とも会談し対中連携強化で一致した(ホノルル会談。ウイルスのワクチンもこの時大量に入手した)。首都キャンベラと大都市シドニーでは米国同様チャイナパージが巻き起こり、多くの中国人が主要なポストから外される。

 ロシア

 大統領は中国の皇帝との会談で中露相互利益不可侵条約を結ぶが、モンゴルやインドへの支援は絶やさなかった。中国の仕掛ける「改造ウイルス」もインドから入手したワクチンをモンゴルに提供して無力化したのだ。また、同国首脳らをモスクワに招きインドと共同でモンゴルに核の拡大抑止を保証した(ヤルタ宣言)。

 一方、日本に対しては中国軍への協力をけん制するために石油供給を減らすなどした。

 モンゴル

 軍はロシアの支援の下、開戦初期こそ都市へのウイルス爆撃を許したが、ワクチンを入手していたこともあり、その後は後退をしながらも的確に中国軍を迎え撃った。モンゴル大統領はモスクワへ飛びロシアやインドと会談して対宇宙兵器を含めた核の拡大抑止を確約する(ヤルタ宣言)。これによって中国は先制核攻撃による戦争の早期終結を先んじて封じられてしまった。

 

続きはこちら

hatoyabu01.hatenablog.com

 

ハトヤブのシミュレーション戦記

hatoyabu01.hatenablog.com

 (2019/9/9,10/2 本文一部修正、12/3 リンク添付)

(2020/1/11 見やすく修正、7/10 リンク追加、8/9 リンクを追加)(9/13 中国籍首相の誕生の記述を修正)(2021/5/8 ウイルス兵器に関する記述を追加)(2022/6/9 モンゴルに関して核の記述を修正)